入居者が退去するたびに発生するのが原状回復費用です。不動産投資のシミュレーションでは見落とされがちですが、退去1回あたり数万円から数十万円が動く、無視できない支出項目です。
やっかいなのは、この費用を誰がどこまで負担するかで、退去時にトラブルになりやすい点です。「敷金が全額返ってこない」「クロス全面張り替えを請求された」といった相談は今も後を絶ちません。
この記事では、国土交通省のガイドラインをもとに、原状回復費用の負担ルールと、オーナーとして押さえておくべき実務のポイントを整理します。

原状回復の法律上の定義を正しく理解する
「入居時の状態に戻す」ではない
国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」では、原状回復を「賃借人の居住、使用により発生した建物価値の減少のうち、賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損を復旧すること」と定義しています。
つまり、普通に住んでいて自然に生じた劣化を元に戻す義務は、借主にはありません。日焼けによる壁紙の変色、家具を置いたことによる床のへこみ、画鋲の穴といったものは、通常の使用の範囲として貸主負担になるのが原則です。
民法にも明文化されている
2020年4月に施行された改正民法では、原状回復の範囲について条文が整備されました。賃借人は損傷を原状に復する義務を負うものの、通常の使用収益によって生じた損耗と経年変化は除外されることが明記されています。ガイドラインの考え方が法律のレベルで確認された形です。
ガイドラインの本文は国土交通省の原状回復ガイドラインのページから確認できます。オーナーとして一度は目を通しておくべき資料です。あわせて、退去時の実務をまとめた賃貸経営の本を手元に置いておくと、判断に迷ったときの拠り所になります。
貸主負担と借主負担の具体的な線引き
| 損耗の内容 | 負担する側 |
|---|---|
| 日照による壁紙・床の変色 | 貸主 |
| 家具の設置による床のへこみ | 貸主 |
| テレビ・冷蔵庫裏の電気ヤケ | 貸主 |
| 画鋲・ピンの穴(下地に達しないもの) | 貸主 |
| 次の入居者確保のためのハウスクリーニング | 貸主 |
| タバコのヤニ・臭い | 借主 |
| 結露を放置して生じたカビ・シミ | 借主 |
| ペットによる傷・臭い | 借主 |
| 釘・ネジの穴(下地ボードの張替えが必要なもの) | 借主 |
| 飲みこぼしを放置したことによるシミ | 借主 |
| 掃除を怠ったことによる水回りの水垢・カビ | 借主 |
判断の軸は「通常の使用の範囲か」「手入れを怠った結果か」です。結露そのものは建物側の問題でも、発生を知りながら放置してカビを広げた場合は、善管注意義務違反として借主負担とされることがあります。
「傷ができたかどうか」ではなく「通常の生活の範囲を超えているか」で判断する。この基準を持っておくと、退去立会いの場で説明しやすくなる。
経過年数を考慮した負担割合の計算
耐用年数で価値が目減りしていく
借主に負担してもらう場合でも、新品価格の全額を請求できるわけではありません。ガイドラインは、設備や内装の価値が経過年数とともに目減りしていくという考え方を取っており、耐用年数の経過時点で残存価値が1円になる直線を想定して負担割合を計算します。
| 部位・設備 | 想定される耐用年数 |
|---|---|
| 壁紙(クロス)・カーペット・クッションフロア | 6年 |
| 流し台(キッチンシンク) | 5年 |
| 便器・洗面台などの給排水設備 | 15年 |
(出典:国土交通省「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」再改訂版)
実際に計算してみる
たとえば、入居から3年でタバコのヤニによりクロスの張り替えが必要になったとします。クロスの耐用年数は6年なので、3年時点での残存価値は約50%。張り替え費用が6万円なら、借主に請求できるのは約3万円ということになります。
入居から6年以上経過していれば、残存価値はほぼゼロです。6年を超えて住んだ入居者にクロスの張り替え費用を全額請求することは、ガイドラインの考え方に沿いません。ただし、経過年数を考慮しても、故意に穴を開けたといった毀損については、施工にかかる手間分の負担を求められる場合があります。
床は面積単位、壁は㎡単位が原則
負担の範囲についても考え方が示されています。壁紙は毀損部分を含む1面分まで、カーペットは毀損した部屋全体まで、というのが一般的な整理です。1箇所の傷を理由に部屋全体のクロスを張り替え、その全額を借主に請求するのは適切とは言えません。小さな傷や剥がれであれば、補修材を使って部分的に手当てする方法もあります。

費用の相場感とオーナーの実務
単身向けワンルームの目安
工事の内容と地域によって幅がありますが、一般的な単身向けワンルームでは、ハウスクリーニングが数万円、クロスの部分張り替えが数万円、床材の張り替えが数万円という規模感になります。喫煙やペットによる毀損があると、消臭作業や下地処理が加わり、費用が跳ね上がります。
見積もりを1社からしか取っていない場合、金額が妥当かどうかを判断できません。複数の施工業者から見積もりを取り、単価と数量の内訳を比較する習慣をつけておくと、長期的な支出がかなり変わってきます。
入居時の記録が最大の防御になる
退去時にもめる原因のほとんどは、「入居前からあった傷かどうか」が分からないことです。これを防ぐ方法はシンプルで、入居時に室内の状態を写真と書面で残し、入居者と共有しておくことに尽きます。
チェックシートに傷や汚れの箇所を記入してもらい、日付入りの写真を添えて双方が保管する。この一手間があるだけで、退去時の交渉がまったく違うものになります。撮影は暗い部屋だとブレるため、スマホ用の小型三脚があると記録の質が安定します。
書類の保管方法を決めておく
入居時のチェックシート、写真、賃貸借契約書、退去時の見積書と精算書。これらが揃っていないと、争いになったときに主張を裏づけられません。物件ごとにA4サイズのファイルボックスを用意し、入居者ごとに個別フォルダーで分けておくと、退去のたびに探し回る手間がなくなります。
複数物件を持つと、この管理が想像以上に負担になります。紙とデータの両方で保管し、写真はクラウドに物件名と入居年月でフォルダ分けしておくのが現実的です。
「退去時にクロス張り替え費用を借主が全額負担する」といった特約は、内容によっては無効と判断されることがあります。特約を設ける場合は、通常損耗を超える負担であることを借主が明確に認識し、合意していることが必要とされています。
敷金の精算とトラブル回避
敷金は原則として返還するもの
改正民法では、敷金は賃貸借が終了して部屋を明け渡したときに、未払賃料などを差し引いた残額を返還すべきものと定められています。原状回復費用のうち借主負担分を差し引いて精算するのが基本の流れです。
立会いは必ず行う
退去の立会いを省略して後から請求書だけを送ると、ほぼ確実にもめます。その場で一緒に室内を確認し、どこがどういう理由で借主負担になるかを説明するのが、遠回りに見えて最も早い方法です。
立会いには管理会社が同行するのが一般的ですが、担当者がガイドラインを理解しているかどうかで対応の質が変わります。委託先を選ぶ際の確認項目に入れておくとよいでしょう。
トラブルになった場合の相談先
当事者間で折り合いがつかない場合は、各自治体の消費生活センターや、宅建業者が加盟する保証協会の相談窓口が使えます。国民生活センターのサイトでは、賃貸借に関する相談事例が公開されており、どのような点が争点になりやすいかを知る参考になります。
賃貸経営の実務を体系的に押さえたい場合は、石原博光さんの『まずはアパート一棟、買いなさい!』のような実践書が役に立ちます。投資に対する考え方を整理する一冊としては、ロバート・キヨサキさんの『改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん』も長く読まれています。

よくある質問
Q. ハウスクリーニング代を借主に負担してもらうことはできますか?
ガイドラインでは、次の入居者を確保するためのクリーニングは貸主負担とされています。ただし、契約時に金額を明示したうえで借主が負担する特約を結び、その内容に借主が合意していれば、有効と判断されるケースもあります。金額を明示せず「実費相当額」とだけ書く形は避けるべきです。
Q. 6年以上住んだ入居者には何も請求できないのですか?
クロスなど耐用年数6年の部位について、経過年数による減価を踏まえると残存価値はごくわずかになります。ただし、通常の使用を大きく超える毀損があった場合、施工にかかる手間の部分について負担を求められることがあります。個別の状況によるため、判断に迷う場合は専門家に相談してください。
Q. 鍵の交換費用はどちらの負担ですか?
ガイドラインでは、入居者の入れ替えに伴う鍵の交換は、物件の管理上の問題として貸主負担とするのが妥当とされています。ただし、借主が鍵を紛失した場合の交換費用は借主負担です。
Q. 原状回復費用は経費として計上できますか?
賃貸経営に関わる支出として、必要経費に計上できるのが一般的です。ただし、資産価値を高めるような大規模な工事は資本的支出として減価償却の対象になることがあります。区分の判断は個別性が高いため、税理士に確認するのが確実です。
Q. サブリース契約の場合、原状回復費用は誰が負担しますか?
契約内容によって異なります。サブリース会社が負担する契約もあれば、オーナー負担とする条項が入っている契約もあります。保証賃料の水準だけでなく、原状回復や修繕の負担がどちらにあるかを契約書で必ず確認してください。
まとめ
原状回復費用は、「通常の使用による損耗と経年変化は貸主負担、故意・過失や善管注意義務違反による毀損は借主負担」という原則で分かれます。借主負担となる場合も、経過年数を考慮した割合で計算するのがガイドラインの考え方です。
クロスやカーペットは6年、流し台は5年、便器や洗面台などの給排水設備は15年という耐用年数が示されており、この年数を超えれば残存価値はほぼゼロになります。
不動産投資の収支計画では、退去1回あたりの原状回復費用をあらかじめ見込んでおくことが大切です。そして入居時の記録を残しておくこと。この2つで、退去時の負担も気疲れも大きく減らせます。

